私たちの声伝えるプロジェクト #1

APFSでは、非正規滞在外国人家族が日本で家族一緒に暮らせるように「家族一緒に!」キャンペーンを今年9月から行っています。その一環で「私たちの声伝えるプロジェクト」をはじめました。ここでいう「私たち」は非正規滞在外国人当事者です。なかなか当事者の声が一般の方の耳に入ることがないため、当事者がどのような状況にいてどういう気持ちか一般の方にもわかって頂きたいと思っています。

一人目は日本で生まれ育ったペルー国籍の子どもです(現在大学生)。家族全員在留資格がなく、その後子どもと母親は在留資格を得ますが、父親は入管収容されながら7年を経て今年春に在留資格を得、家族全員が日本で在留することが認められました。APFSは家族とともにその7年をたたかってきました。子どもがどのような気持ちでこうした家族の中で過ごしていたのか、その気持ちを書いて頂きました。

「私の気持ち」
 私の国籍はペル-共和国です。私は日本で生まれ、日本で同級生と同じ教育を受けてきました。私の両親は20年以上前に仕事を探しに日本に来ました。私の両親はペル-にいる家族を養うためのお金を稼ぎたいゆえに日本でオーバ-ステイをしてしまいました。
 2008年に私の母は仕事中に入管の人にオ-バ-ステイで捕まりました。私はそのころ小学校に行っており帰った時に親戚の人に全てを聞きました。母は私が未成年だったため特別に許可が下りて家に帰ってくることが許されました。私は今でも母が車から降ろされ、母の腕はひもで結ばれていたことを覚えています。母は誰も殺してもないのに犯罪者のように扱われとても苦しかったです。母と私は日本が好きで日本に残りたい気持ちが強かったので日本に残れるように頑張って戦ってきました。何度も帰れと言われましたが私たちは最後まで諦めないで頑張ってきました。2年後母と私は日本に残るためのビザを所得することが出来ました。私の中ではとても長く、辛い2年間でした。しかし、2010年に父が次に入管に捕まりました。父は私が母といたため、入管の収容施設に入れられました。父は捕まったその時から強制送還を命じられました。しかし、父は私の将来のため日本に残りたくて、必死に残りたい意欲を入管に伝えました。強制送還は逃れましたが父は1年間収容施設の中にいました。私と母は頻繁に父に会いに行っていました。父は日に日に細くなっていき笑顔を見せることが少なくなりました。父が目の前にいるのに抱きしめることも触ることもできないのはとても辛いことでした。父はその後、仮放免許可を取得し家族と一緒に住むことが出来ましたが、仕事をすることが出来ず、母は毎日夜遅くまで仕事をしていました。父は自分が仕事のできない環境にいる自分が情けないと思い、ストレスになってしまいました。
父は今年の春にビザを取得することが出来ました。諦めずに三人で戦ってきて本当に良かったと思っています。日本で仕事をしたい、勉強がしたいだけなのになぜこんな扱いを受けないといけないのか、私は、すごく辛かったです。今でも日本で家族のために頑張っている人は皆が知らないだけでたくさんいます。辛いこと、ひどいことを言われても日本で住んでいきたい、日本が好きな人が今でも戦っています。私はその人達の支えになっていきたいと思います。